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学校法人 武南学園 武南高等学校

『ボクの音楽武者修行』石井先生のオススメ

2020/05/05

 「外国の音楽をやるためには、その音楽の生まれた土、そこに住んでいる人間、をじかに知りたい」そう思った若者は、「多少の金さえ持っていれば、あとは日本のスクーターでも宣伝しながら行けば、ぼく一人ぐらいの資金は、捻出できるのではないか」と考え、「音楽武者修行」へ出発した。1959年2月のことだ。

 この若者は、後に「世界のオザワ」と呼ばれる、指揮者の小澤征爾(おざわ・せいじ)さんである。小澤さんは西洋音楽を学ぶために、単身でヨーロッパヘ渡り、ブザンソン国際指揮者コンクトルに出場し、見事に第一位を獲得。その後、フランス、ドイツ′、アメリカで「修行」を重ね、三年後には、ニューヨーク・フィル副指揮者となって日本で演奏会を行うまでになった。その後、現在に至るまでの活躍は、広く知られている通りである。

 ヨーロッパヘ行くためには、資金と手段が必要だ。資金は、小澤家は裕福ではなかったため、小澤さんの志を理解してくれた人々から借りたりもらったりして集めた。手段については、運良く貨物船に安く乗せてもらえることになった。さらには富士重工から新型のスクーターを手に入れ「白いヘルメットにギターをかっいで日の丸をつけたスクーター」姿でヨーロッパを駆け巡ることになる。

 二か月弱の船旅を経て、小澤さんはいよいよフランスはルセイユに到着した。そこからパリをめざしてスクーターの旅を始めるのだが、「そのころは、この先どうやって勉強しようとか、どのくらいヨーロッパにいられるだろうかなどという計画は皆無だった。どの先生に指揮を習うかということも考えていなかった」そうだ。でも、「音楽会に通っていると、音楽を選び進んでいる自分が非常に幸福に感じられたし、またやり甲斐のある仕事にも思えた。同時に音楽をやりたいという気持ちが自然に昴じて来た」そんな幸せを感じつつも、一方では「首筋にこびりついた垢が一ケ月くらい、いくらこすっても取れなかった」り、さらには「長い旅行と、パリでの安めし屋通い結果、栄養失調気味で地が足りなくなり、何をやっても体がすぐフラフラする」ようになったりと、「貧乏旅行」ならではの困った体験もした。

 小澤さんはそうした困難をなぜ乗り越えられたのか。そもそも、ヨーロッパヘ来ること自体、なぜ実現できたのか。それは、小澤さんが物怖じせず、人との縁を大事にし、そして何よりも音楽に対して全力で向き合っているからだと思う。小澤さんは、周囲の人々、また「とんでもなく下手」なフランス語や、「カタコトの英語」を駆使して新たに知り合った人々との緑を大事にしている。そして何と言っても、音楽に真摯に向き合い、「いい音楽を精いっぱい作りたい」と常に努力している。これらがあってこそ、小澤さんは指揮者として認められ、作り出された音楽は人々を魅了するのだろう。

 あるとき小澤さんは、アメリカの世界的な指揮者バーンスタインに、「こんな美しい国で育ったのに、なぜニューヨークで暮らす気になったのか」と聞かれた。それに対し小澤さんは、「ぼくも日本を美しいと思わないわけではない。ただ西洋の音楽を知りたくて飛び出して行ったのだ。その結果、西洋の音楽のよさを知り、また日本の美しさも知るようになった。ぼくは決して無駄ではなかったと思っている。それどころか、今後も日本の若者が、どしどし外国へ行って新しい知職を得、また反省する機会を得てもらいたいと思っている」と書いている。

 新しいことを知る、知っていることをさらに深く知るために、今いるところから外に出てみる。それは何も海外へ行くことだけに限らない。今までに経験したことがないことに挑戦すると考えれば、日常の中でも可能だ。その一つのきっかけとして、本を読むということもぜひ加えてみて欲しい。もしかしたら、今までとは違った景色が見えるかもしれない。それだけでも、大きな一歩だ。