真に健全で個性豊かな人間教育の樹立

学校法人 武南学園 武南高等学校

終業式 校長講話

2020年03月24日

 

今日は、終業式ですが、新型コロナウィルスの影響で通常の終業式が実施できません。そこで、ネット上で皆さんにお話しします。 

3月5日に第55期生が卒業しました。今年は、国際大会で入賞したり、インターハイで活躍したり、皆勤だったりと様々な分野で卒業生の約4分の1が表彰されました。とても頑張った学年なので、在校生の前でお祝いする卒業式にしたかったのですが、新型コロナウィルスの関係で在校生は参加できませんでした。立派な先輩の努力と実績に続くように皆さんも頑張ってください。

 それでは、普段の終業式では、時間の関係で話すことができない少し長い話をしようと思います。

 私は、大学3年になるまで教師になるつもりは、まったくありませんでした。教師になるきっかけとなったのが一番仲の良かった友人が教師を目指していたので、私も付き合って教職課程を取ることにしました。この友人は、以前「なにこれ珍百景」で風変わりな先生として紹介されるほど変わっています。本物はテレビで紹介された以上に変人ですがとても魅力のある人です。その友人のお母さんの話です。友人のお母さんが年をとり体も弱り入院していたときに子供たちが、お母さんの書き残したものをまとめて「胸の中の勲章」という一冊の本を出版しました。その中の「たまご」という作品を紹介します。たまごが貴重でなかなか手に入らない時代の話です。

胸の中の勲章

 

 話は昭和15年春までさかのぼる。女学校を卒業した私は、師範学校二部に進学した。

 入学式を終え、城山沿いの小高い岡に立つ寄宿舎に入寮したまでは良かったが、その日のうちに、腹がキリキリと痛みだした。特に胃に障るものを食べた覚えもない。しかし激痛は止まるどころか、ますます激しさを増し、少しずつ下腹部左に移行していくようなのだ。

 入学、入寮ほやほやで心の通う友とてなく、担任教師や舎監の顔さえ覚束ない。結局一人で立ち向かうしかなかった私は、教わった病院へと痛む腹を抱えながら駆け込んだ。

 受診した結果は、「急性盲腸炎!直ちに入院、手術の要あり。ただし手術には必ず保証人を必要とする。」というのだ。時恰も太平洋戦争の真っ只中。親は遥か彼方の奄美大島。ただでさえ二泊三日の船旅なのに、戦時下とあっては乗船そのものがいつになるのか予想もつかない・・・・緊急連絡の方法もなければ、ましてや肉親が鹿児島へ駆けつけてくれることなどとは望み得べくもなかたのだ。

 思い悩んだ末、ふと思い出したのが、女学校の担任だった恩師の顔である。藁にでも縋る思いで医師に頼んで電話してもらったところ、即刻駆けつけ、保証人となった上、いく度も来院しては励ましてくださった。地獄に仏とはこのことか!あのときの温情は今もって身に沁みて、忘れることができない。

 手術後の経過も良好で二週間ほどで無事退院。寄宿舎に戻った私は、漸く翌日から登校し、新たな級友たちと机をならべることができた。

 しかし、僅か二週間ぐらいとはいえ、絶食・重湯・粥の食制限ですっかり憔悴しきた直後の寄宿舎生活、通学である。回復が遅くいつの間にか体重も驚くほど減少してしまった。

そんなある日のこと、「私は大島航路の船員ですが、お母さんからの贈り物を届けに来ました」「えっ、母から・・・」何だろう?手術のことは手紙で知らせておいたが、物を頼んだ覚えはない・・・・

「・・・あの、もっと早くに来ればよかったんですが、出航直後から時化続きで、あちこちの港に避難したため、予定よりだいぶ遅くなりました。ご免なさい。」

私は、船員がこう言って詫びながら手渡す風呂敷包みを受け取った。

 包みを開くと、一枚の走り書きがのっている。

「手術までしたとのこと、毎日気にかかって眠れません。寄宿舎では十分栄養も取れないと思い、船員さんに卵を頼みました。朝晩必ず割って飲むようにしなさい。」

 母が馴れない鉛筆を手に、懸命に描いた送り状である。私は、たどたどしい文字を読むうち、たちまち涙でかすんで読めなくなった・・・。

 なんと卵を持たせてよこしたのだ!見ると藁苞が十本あまり重ねてあり、中には五個ずつの卵が入っている。総計五十個を超す量である。

 -これだけの数どうやって集めたのだろう!-

 もちろん母の家でも鶏は飼っている。しかし、一日数個がぎりぎりなのだ。冷蔵庫もない昔の話、新鮮な生卵をこれだけ集めるとしたら、隣近所を駆けずり回ってかき集めなければならぬはず・・・

 しかも、当日の船に間に合わすため、遥か遠い鹿浦港まで、あの坂道を登ったりして、ようようの思いで船員さんに託したものだろう。

 母とは、何と有り難いものなのか!母の気持ちを思いやると、愛しさのあまりきゅっと胸がしめつけられ、息苦しくなってくる。

 震える手で卵を一個取り出して、茶碗に割ってみた。何と!白みの中に丸い黄みの生卵を想像していた私の頭は、ハンマーで殴られたような衝撃をうけた。黄みが白みの中にどろっと溶け込んでいるのだ。目が涙で霞んだせいではない、いくら見直してもいたんだままである。

―腐ったのは一個、一個だけ・・・・きっと残りは大丈夫なはず―

祈るような気持ちで、次の一個を割ってみた。しかし、結果は同じである。わーっと泣き出したわたしは、夢中でさらに数個割ってみたが、どれ一つとして満足なものはなかった。だめだ!私は手をとめた。母の苦労を思うと、目の前が真っ暗になった。どうしよう・・・。

その夜人目を忍んだ私は、藁苞を包み直した風呂敷を抱え、寮裏の大きなコンクリート製ゴミ箱に足を運んだ。

 包みを通し、母の心情が伝わってくる。私の体を気遣って、隣近所一軒ごと頭を下げて卵を集め歩いている母。その卵がかち合わぬよう一個ずつ藁苞に慎重に包み、港までの坂道を必死に歩む姿が彷彿と目に浮かぶ。何と無情な!母の慈恩に応えられないやり切れなさ、申しわけなさが切々と胸を打ち、たまらなく悲しかった。

 一個ずつ手にとっては「ご免なさい・・・」と念仏にも似た言葉を吐いて卵を割り、ゴミ箱へ次々と落とした。母への言葉なのか卵への言葉なのか、涙でむせぶ私には区別さえつかなかった。ただ無性にもの哀しい切なさだけが、今も鮮明に残っている。

 いく日か過ぎて、私は母へ手紙を書いた。

『お母さん、

 先日はたくさんの「たまご」有り難うございました。船が入港して直ぐ、お母さんが頼んだ船員さんが、わざわざ寄宿舎まで届けてくださいました。お母さんからの手紙のとおり、朝晩毎日、「たまご」を茶碗に割って飲み続けております。そのおかげで、入院時の疲れも取れ、日一日と体調も良くなり、すっかり元気を回復することができましたのでご安心ください。新しい学校にもなじみ、友達もできました。夏休みの帰省を楽しみに待っていてくださいね。

       お母さんへ             つね子より』

 

 つぎに、この本のタイトルになっている「胸の中の勲章」という話を紹介します。私の友人がまだ、お腹にいる時に、お母さんが肋膜炎にかかり医者から「母親の命が大事だ、出産をあきらめるように」と言われたそうです。しかし、お腹をけって胎児が「こんなに元気なんだよ」とうったえる命の息吹を感じ、医師の勧告をことわり、この子を産みたいと必死で懇願したそうです。そのかたくななひたむきなその言葉に、医師も「すべなし」とその当時めったに手に入らない新薬を何処から手に入れて「これを注射して経過を見ましょう」といってくれたそうです。お陰で友人も無事に生まれてくることができましたが、その時の肋膜炎の跡が40年以上たった健康診断のX線写真に映っていたそうです。その影が「肺がん」ではないかと健康診断の結果を心配して訪ねてきた息子夫婦に、これは「胸の中の勲章」だといって、当時の話をしてくれたそうです。肋膜炎にかかりながらも命がけで私の友人を生んでくれたので、私もこうして教師になって皆さんにこの話を紹介することができているのです。この本には、お母さんの書き残した20編ほどの作品が収められています。

 さて私が、今日この本を紹介したのは、もちろん話そのものに感動したからですが、もう一つ理由があります。

 この本をお母さんの看護をしてくれている病院の職員の方たちに差し上げたそうです。職員の目の前にいるのは息子の顔もわからなくなるほど年老いたおばあさんです。人は見えているものしか見えません。看護・介護の対象であり、助けがなければ生活していくことも困難な老人です。しかし、本を読んだ後、職員の方たちのお母さんへの接し方が変わったそうです。お母さんに対してだけでなく入院しているほかの老人に対しても変わったそうです。なぜ変わったか考えてみてください。

 一冊の本が、今では息子の顔もわからなくなったお母さんの人生を、人格を、生き方を見えるようにしてくれたのだと思います。人は見えるものしか見えませんが、見えているものが全てではありません。また、正しいわけでもありません。

病院の職員の方たちの気付き、そしてすぐに行動に移したことを素晴らしいことだと思います。

私は教師になるつもりはありませんでしたが、今では、皆さんの大切に育てられた十数年間の姿、現在の姿、そして輝かしい未来の姿を見ることのできる仕事に就いて幸せに思います。

新型コロナウィルスが終息して一刻も早く教育活動が再開できることとそれまでの間、皆さんの自学自習の充実を期待して終業式の挨拶とします。